谷中七福神の一つ「護国山天王寺」の御朱印や見どころ

護国山天王寺

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谷中七福神の一つ「天王寺」。普段は大変静かなお寺ですが、七福神巡りに時期には多くの参拝客でにぎわいます。
天王寺には大仏がいることでも知られていて、明治には「天王寺大仏」と呼ばれ、東京のシンボルとして親しまれたそうです。
今回はそんな天王寺の見どころをご紹介します。

護国山天王寺の場所や開門時間

天王寺の基本情報
開創:鎌倉時代後期 (13世紀後半)
本尊:阿弥陀如来
所在地:東京都台東区谷中7丁目14-8
TEL:03-3821-4474
アクセス:JR「日暮里駅」南口より徒歩2分
千代田線「千駄木駅」より徒歩15分
開門時間:
4月~9月:
10月~3月:10時~17時
4~9月の開門時間はわかり次第、追記します。

護国山天王寺があるのは日暮里駅からすぐの谷中霊園の一角。
緑に囲まれ、都心にも関わらずとても静かな場所です。

JR「日暮里駅」南口を出たら、左へ。
日暮里駅
突き当りを左に曲がり、階段を上ります。
日暮里駅
上るとすぐ目の前が天王寺の塀です。
天王寺
道なりに歩いていくと、左手に近代的な山門が見えます。

天王寺の前にある、谷中墓地の参道は桜並木になっているので、桜の時期はとても綺麗ですよ( *´v`)
また、紅葉の時期もおすすめです。
護国山天王寺

天王寺の見どころ

天王寺
こちらの山門は、平成10年に造られたものだそうです。
山門をくぐって境内に入ると、すぐ右手に手水舎があります。
天王寺
そして、まずお出迎えてしてくださるのが大仏様。
天王寺-大仏
身長約4.8mの「銅像釈迦如来坐像」です。
日暮里駅のすぐ近くに大仏様がいらっしゃるなんて知らない人も多いかもしれませんが、明治時代には東京のシンボル「天王寺大仏」として親しまれていたそうです。
穏やかなお顔をしている釈迦如来像をしばらく眺めていると、気持ちが落ち着いてきます。
台東区設置の説明板によると、こちらの像は元禄3年(1690)に建てられたもの。
もともと、旧本堂の右側に建てられたそうですが、昭和8年6月に修理を加え、現在の場所に鉄筋コンクリートの基壇を造り、その上に移されたそうです。
さらに、昭和10年、基壇内部に納骨堂が増設されました。
旧本堂は五重塔跡の北西の道路中央あたりにあったそうです。

そして正面には、仏堂っぽくない本堂があります。
天王寺
奈良の十輪院を模しているそうです。戦後、鉄筋コンクリートで建て替えられています。
こちらにはご本尊の「阿弥陀仏」が祀られています。
室町時代の
本堂の手前には、「沙羅双樹」の木が植えられています。

右側には毘沙門堂があります。
天王寺
こちらの毘沙門堂は、昭和32年に放火によって焼失した天王寺五重塔の、焼け残った下層部の残材で再建されたものです。
谷中のシンボルだった五重塔の一部がここに残っていると思うと少しうれしいです。
こちらでは、谷中七福神の一つ「毘沙門天」が本尊として祀られています。
東叡山は比叡山をマネしてさまざまなお堂が建てられていますが、天王寺は鞍馬寺にあたるお寺として比叡山の円乗院から毘沙門天の木像をお迎えして祀っています。

谷中七福神

【2020】谷中七福神めぐり | コース順路や御朱印など詳しく解説

2020年1月8日
そしてその奥には、平成10年に建てられた上善堂(講堂)や客殿があります。
天王寺-谷中七福神

天王寺にはもう一つ門があります。
向唐門です。
天王寺
向唐門のそばにも手水舎があります。
天王寺
天王寺
天王寺

こちらは学童守護のお地蔵さま。
天王寺
台座のプレートには子供たちの絵が刻まれています。

いつも境内は綺麗にお手入れされています。
万両?には傘がかぶせてありました。藁ぼっちと言うらしい。
天王寺
冬らしいですね。

山門脇や境内にはいくつかベンチが置かれています。
天王寺
こちらに座ってゆっくり釈迦如来坐像を拝見することができます。

右奥にお手洗いもあります。
天王寺
天王寺の向かいには石造の五重塔がありました。
天王寺

天王寺の御朱印のいただき方

天王寺
御朱印は、本堂の右側にある「寺務所」で頂けます。
天王寺-御朱印
書き置きの御朱印をいただきました。
中央には「毘沙門天」と書かれています。
初穂料は300円でした。

御本尊の阿弥陀如来の御朱印もあるようですが、この日は七福神巡りの開催期間だったため、こちらの護朱印をいただきました。

天王寺の歴史

護国山天王寺
天王寺は激動の歴史を歩み、今に至ります。
現在、天王寺は天台宗ですが、もともと日蓮宗のお寺でした。
鎌倉時代後期、日蓮聖人がこの地に住んでいた土豪・関長耀の家に泊まりました。
その時、関長輝は日蓮聖人に帰依し、草庵を作りました。
そして、弟子の日源がそこに、日蓮聖人が彫った像を祀り「長耀山感応寺」と呼んだのが天王寺の始まりと伝えられています。
その後、室町時代に目黒の法華寺(現在の天台宗円融寺)から日耀が移ってきて復興しました。
しかし、元禄11年(1698)、「不受不施派(法華信者以外からはお布施を受けず、また他宗派の僧には布施を施さない)」に属していたため、住職の日遼は島流しになり、聖人像や日蓮宗関係のものは近隣の瑞輪寺などの日蓮宗寺院に移管され、廃寺の窮地に立たされます。
しかし、東叡山輪王寺の住職、公弁法親王が、廃寺となることを惜しんで、幕府に天台宗寺院として存続させてもらえるよう説得し、5代将軍徳川綱吉によって認められました。
そして、千駄木大保福寺の慶運大僧正を迎えます。
また、感応寺が寛永寺の北に位置したため、延暦寺の北にある鞍馬寺に倣って、比叡山飯室谷円乗院から伝教大師親刻とされる「毘沙門天立像」を移して新本尊としました。(寛永寺は延暦寺に倣って建てられました)
この毘沙門天は谷中七福神の1つとして信仰を集めています。

その後、元禄13年(1700)には、寺社維持のための費用を生み出すため、幕府から富くじ(現在の宝くじのようなもの)の興行を許され、目黒不動・湯島天神とともに「江戸の三富」と呼ばれ、江戸庶民から人気を博しました。
その様子が詳しく描かれている『東都歳事記』の中の「富突き定め書き(板額)」や『富興行一件記』など富興行関係史料11点が天王寺に保管されています。しかし、天保13年(1842年)には禁止されます。
天保4年(1833)、中山法華経寺の日啓らが感応寺を再び日蓮宗にしようとする運動が起こりましたが、それは叶いませんでした。
そして、そのことをきっかけに、長耀山感応寺から護国山天王寺へと名前を変えました。

その後、彰義隊の戦いの際に、本坊と五重塔以外は焼失していしまします。
刀傷のある柱が今でも残っているそうです。
天王寺町
また、もともとは谷中霊園のほとんどが天王寺の境内でしたが、明治政府の神仏分離令によって一部の境内を残して没収されてしまいます。
そのような苦難に見舞われながらも、焼け残った本坊を本堂に修復し、本尊を毘沙門天から阿弥陀如来に変え、復興を進めました。
天王寺五重塔
昭和32年には、幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとなった天王寺五重塔が放火によって焼失してしまいます。

天王寺五重塔

今はなき谷中のランドマーク「天王寺五重塔」なくなった理由は?再建の予定は?

2019年11月27日
昭和36年に焼け残った下層部の残材で、第19世住職・田村貫雄大僧正は毘沙門堂を再建しました。
そして、戊辰戦争の時、四谷安禅寺に避難して無事だった「毘沙門天」と「吉祥天」・「善膩師童子(ぜんにじどうじ)」の2脇侍像を安置しました。
第20世大久保良順大僧正は、昭和57年に現本堂ならびに書院を再建し、さらに平成10年、現住職により講堂・客殿・新山門が新築されてました。

まとめ

谷中七福神の一つとして知られる「天王寺」。
都心にありながら、静寂に包まれたお寺で、心が和みます。
ぜひ、一度参拝に訪れてみてください。