10万平方メートルという広さの谷中霊園には元首相の鳩山一郎や画家の横山大観、渋沢栄一などの著名人が眠っています。
その中でも最も有名なのが徳川家15代将軍の徳川慶喜。
今回は徳川慶喜のお墓をご紹介します。
徳川慶喜のお墓の場所は?
台東区谷中七丁目にある谷中霊園(谷中墓地)は、東京都が管理する谷中霊園や寛永寺谷中墓地、天王寺墓地などが含まれていす。
面積はおよそ10万平方メートル。
中央の通りは桜並木、都会でありながら、様々な野鳥を見ることもできます。
広大な霊園には約7000基のお墓があり、その中には数多くの著名人も眠っています。
その中でもっとも有名なのが徳川慶喜です。
徳川慶喜(1837~1913)は徳川幕府最後の将軍。
水戸徳川藩主斉昭の七男として小石川の上屋敷で生まれました。
1847年に一橋家を相続して、徳川慶喜と名乗るようになります。
1866年12月5日、第15代将軍に就任します。
1867年10月14日に大政奉還を行ったため、将軍だったのはわずか1年足らずという短い期間でした。
そして江戸無血開城を行い、江戸幕府の終焉を見届けます。
そんな徳川慶喜が眠るのは、寛永寺谷中墓地。
日暮里駅からのアクセス方法
谷中霊園はJR日暮里駅から徒歩5分ほどの場所にあります。
①日暮里駅南口を出たら左に進みます。
②橋のつきあたりを左へ。この階段(坂)は紅葉坂といいます。この坂をのぼっていきます。
左手に護国山天王寺、そして目の前に谷中霊園が広がっています。
③さくら通りを直進します。
④トイレの先の道を左折すると、徳川慶喜墓までの案内板があります。
その先、いくつか案内板があるのでそれに従って進んでいきます。
この看板によると、この塀に囲まれているところが徳川慶喜のお墓のようです。
正面に回ってみます。
「徳川慶喜公墓所」という碑が立っています。この碑の向かって左側が正面になります。
徳川慶喜のお墓は神式
中に入ることはできませんが、柵の隙間から見ることができます。
門には、徳川慶喜の家紋である「葵紋」が。
徳川家によって葉の模様の数が違うそうで、徳川三代までは1枚に33本ですが、徐々に減っていき、慶喜の三つ葉葵は13本です。
門の横にある説明板によると、塀で囲まれている土壇は間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留で囲っているそうです。
ちょうどいらしたボランティアのガイドの方がいろいろ説明してくださいました。
ここには、全部で10基のお墓があり、計21名が埋葬されているのだそうです。
中央の向かって左にあるのが徳川慶喜のお墓。
お墓の前には黒猫が気持ちよさそうに日向ぼっこしていました。
慶喜のお墓は仏式ではなく神式のお墓です。
直径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇が築かれ、その上に葺石円墳状のお墓があります。
なぜ神式のお墓なのかというと、明治天皇は朝敵とされた慶喜を免した上、華族の最高位である「公爵」を与えてくれます。
そんな明治天皇に感謝の意を表すために、慶喜は神式で葬儀を行うよう遺言を残し、そのため一般皇族と同じ円墳が建てられたそうです。
慶喜は大政奉還で将軍職を辞めているので、他の歴代将軍のように寛永寺内ではなく、谷中霊園にお墓を造ったそうです。
慶喜のお墓の右隣りが正室の美賀子(1835~1894)のお墓です。
一条美賀子の父は今出川公久、養父は一条忠香。
幼名は延君。
慶喜は一条忠香の娘・千代君と婚約していましたが、直前に疱瘡に罹患してしまい、延君が代役として立てられます。
そして、忠香の養女となり、1855年に慶喜と結婚しました。
慶喜のお墓の奥には慶喜の側室だった新村信と中根幸のお墓があります。
新村信(?~1915)は旗本の松平政隆もしくは松井勘十郎の娘として生まれます。
旗本荒井省吾の養女となり、さらに一橋家時代から慶喜に仕えていた小姓頭取の新村猛雄の養女となって、側室になります。
慶喜には多くの側室がいましたが、維新後に駿府に移り住んでからはほとんどの側室に暇をとらせ、最後まで身の回りの世話をしたのは、新村信と中根幸だったそうです。
墓標は慶喜のお墓の右後ろにあります。
中根幸(?~1915)は旗本の中根芳三郎の娘として生まれます。
旗本の成田新十郎の養女となり、慶喜の側室になりました。
墓標は慶喜のお墓の左後ろにあります。
そして、左奥にはもう1人の側室、一色須賀(1838~1929)のお墓があります。
父は旗本の一色定住。6才の時に一橋家の奥女中だった叔母の養女となって一橋家に入ります。
その後、美賀子付きの女中になり、美賀子が亡くなった後も慶喜に仕え、側室になります。
このお墓は陰に隠れていて見えにくいですが、慶喜の方を向いてお墓が建てられています。
また、須賀の須という字が「寿」になっています。
ガイドの方によれば、慶喜との間に子どもはいませんでしたが、慶喜にとって最も大切な存在だったのではないかとのこと。
慶喜の七男の徳川慶久と妻の実枝子、0歳で亡くなった長女・慶子のお墓もあります。
慶久は新村信との間に産まれた子供です。また、実枝子は有栖川宮威仁親王の王女です。
慶久は1910年慶喜の隠居に伴い、1913年に跡を継ぎました。
左には「徳川家之墓」という墓標があります。
ここには慶喜の孫・徳川慶光(1913~1993)と妻の徳川和子(1917~2003)が眠っています。
慶光は徳川慶久と実枝子の息子です。
右奥には早くに夭折した慶喜の子供たちの合祀墓があります。
このお墓には、新村信と中根幸などの側室との間にできた子供10人が埋葬されているそうです。
慶喜には総勢24人(21人?)の子供がいたそうですが、そのうち10人は幼くして亡くなってしまいました。
徳川慶喜と正室美賀子の間に産まれた子供のお墓
慶喜と美賀子の間には1人女の子が生まれますが、すぐに亡くなってしまい、その後2人の間に子供はできませんでした。
夭折した子供は、先ほどの慶喜のお墓には埋葬されていません。
では、どこに埋葬されているのかというと、向かい側の一橋家のお墓だそうです。
違う角度から。
この子が産まれた時、慶喜はまだ一橋家だったため、徳川のお墓には埋葬されていないそうです。
慶喜のお墓の前に古銭が!
こちらもまた、ガイドの方に教えていただいたのですが、慶喜のお墓の前の飛び石には古銭が埋まっています。
お墓の真正面ではなく、斜め前の飛び石にあるですが、正面では恐れ多いので斜め前に当時の誰かが置いたのではないかとのこと。
勝精のお墓
慶喜のお墓の隣には慶喜の息子・勝精(かつくわし)のお墓もあります。
慶喜は新村信との間に産まれた子供・精を勝海舟の孫娘伊予子のところに養子に出しています。
墓標には勝 精と伊予子の名が刻まれています。
徳川厚のお墓
また、すぐ近くには、徳川厚(あつし)のお墓もあります。
慶喜のお墓の右側の通路を進んだ角にあります。
徳川厚(1874~1930)は慶喜と側室・中根幸との間に産まれた四男です。
右から三番目に「正四位勲三等男爵 徳川厚」と刻まれ、その横には徳川慶喜四男とあります。
正室の徳川里子、長男・徳川喜翰(のぶたか)、次男・徳川喜堅(よしたか)、四男・徳川喜知、長女・喜久子の名も刻まれています。
まとめ
自然豊かな谷中霊園では春は桜、秋は紅葉と四季折々の花や木々を観察することができます。
ゆっくりと散策してみてはいかがですか?