上野動物園内には「上野五重塔」がありますが、かつてはすぐ近くの谷中にも五重塔があったことをご存じですか?
当時、このあたりに住んでいた人たちにとっては、上野と谷中、2つも塔が眺められることは自慢だったそうです。
今回は谷中五重塔についてご紹介します。
天王寺五重塔跡
谷中五重塔があった場所は、谷中霊園の敷地内です。
もともと、谷中霊園は明治5年(1872年)に、旧天王寺境内の一部を官有として、それに天王寺墓地、徳川墓地などの一部をあわせた谷中墓地が始まりだったそうです。
その後、明治7年に東京都の公共墓地になり、東京の三大墓地の一つとされています。
谷中霊園には天王寺墓地や寛永寺霊園などが入り組んでいます。
広さは約10万平方メートル、幕末や明治維新以降の著名人のお墓も多くあります。
日暮里駅からの行き方
今回は日暮里駅からの生き方をご紹介します。
①まず、日暮里駅南口を出たらもみじ橋を左に進みます。
②橋の突き当り左に階段があり、この坂(階段)をもみじ坂といいます。
もみじ坂を上って行くと左手に「護国山天王寺」見えてきます。
手入れの行き届いた境内には大仏が鎮座しています。
谷中にかつてあった五重塔は、ここ護国山天王寺の塔として創られたものなのです。
天王寺の向かいに石造の五重塔のがありました!
ここで、台東区が設置した護国山天王寺の説明板を読んでみます。
日蓮上人はこの地の住人、関長輝の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長輝は草庵を結び、その像を奉安した。伝承による天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(1394~1427)頃の創建という。
『東京府志料』は「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ本日蓮宗ニテ長輝山感応寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで“富くじ”興行が開催された。目黒の滝泉寺・湯島天神の富とともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。
元禄12年(1699)幕府の命令で、感応寺は天台宗に改宗した。ついで、天保4年(1833)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』で知られていた。しかし昭和32年7月6日、惜しくも焼失してしまった。
平成4年11月
台東区教育委員会
③天王寺の目の前が谷中霊園です。
谷中霊園の中央を通る大きな通り「さくら通り」を進んでいきます。
④しばらく進むと左手に駐在所があり、その手前の左奥に天王寺五重塔跡があります。
この奥です。
所在地 | 東京都台東区谷中7丁目9−6 |
地図 |
天王寺五重塔の歴史
説明板によると、最初に五重塔が建てられたのは寛永21年(1644年)。日蓮宗の長燿山感應寺尊重院だったころです。
しかし、明和9年(安永元年1772年)に目黒行人坂の大火で焼失してしまいます。
それから16年後の天明8年(1788年)に湯島に住んでいた近江国(滋賀県)高島郡出身の棟梁・八田清兵衛たち48人によって再建工事が始まり、寛永3年(1791年)に完成しました。
総欅造りで高さ34.18メートルあり、関東でもっとも高い塔でした。
この時再建された五重塔は幸田露伴の小説「五重塔」(1891年)のモデルとなっています。
幸田露伴は当時、すぐ近くに住んでいて、その家から日々五重塔を眺めていたそうです。
現在、家は残っていませんが、居宅跡を示す看板が建てられています。
ところが、昭和32年7月6日、放火によって焼失してしまったのです。
今はもう何も残っていないのかと思ったら、よく見ると草の陰に隠れて「礎石(そせき)」が見えます。
礎石とは建造物の土台となって柱などを支える石のことです。
説明板によると・・・
現存する方三尺の中心磁石と四本柱礎石、方二尺七寸の外陣四隅柱礎石、回縁の束石20個、地覆石12個総数49個はすべて花崗岩である。・・・中心磁石からは、金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。
跡地には、ありし日の五重塔や、放火によって燃えている五重塔、礎石などの写真が掲示されていました。
天王寺五重塔がなくなってしまった理由
昭和32年(1957年)7月6日の早朝、無理心中による放火によって五重塔が消失してしまったのです。
五重塔から50m離れたところまで火の粉が降り注いだと言います。
焼失後に、焼け跡からは男女の区別もつかないほど焼損した2体の焼死体が見つかりました。
遺留品の捜査によって、焼死体は裁縫店に勤務していた48歳の男性と21歳の女性であることが判明。
そして、この2人は不倫の末、心中を図ったことがわかりました。
しかし、都は管理しきれないので、掃除などは天王寺の方で行っていたそうです。
ただ、天王寺でも管理するのは難しく、ホームレスのたまり場のようになっていたそうです。
再建の予定はある?
大島盈株(おおしまえいしゅ)による明治3年の実測図が残っていて、復元することも可能なんだそうです。
今まで何度も再建の計画が上がったそうですが、うまくいきませんでした。
そして、焼失から50年経った2007年にも再び再建の計画が持ち上がりました。
しかし、再建には至っていません。
東京都の土地に宗教関連の建築物を建てることはまずないとのこと。
そして万が一建てるにしても、10億円かかるそうです!
このような理由から、再建はないだろうとのことでした。
天王寺の隣には五重塔のイラストが描かれています。
まとめ
今はなき谷中のシンボル「天王寺五重塔」。
跡地を眺めながら、ありし日の五重塔に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。